The History of Street Culture Episode-1
ストリートの歴史 エピソード1-1
【HIP HOPの起源となった黒人奴隷制度の始まり】
1640年代、安い労働力で行う大規模農業(プランテーション)の白人オーナーたちが、イギリスの海賊たちから奴隷としてアフリカ人20名を買収したのをきっかけに人種主義が生まれ、奴隷制度・人種差別という形が完成しました。
イギリスの綿花製造技術が高まり、アメリカでは多くの綿花を輸出するための労働力を得る為、アフリカから黒人奴隷を大量に買収し始めました。そして大量に増えた黒人たちから反乱が起こらないよう、体罰などの非人道的扱いはエスカレートしていきました。
しかしアメリカ人から見ても”さすがに人道的じゃなさすぎる”という声が高まり、奴隷制度の廃止を巡りアメリカ国内で内戦が起きます。その結果、一部の奴隷が解放されて奴隷制度は約250年の時を経てようやく終わりへと向かっていきました。
奴隷解放令により形式上終わりとなった奴隷制度ですが、ほんの50年ほど前まで約400年間もの間、依然として黒人たちは白人優位な社会体制から抜け出せずにいました。
HioHopの創始者とされているDJ Cool Hercが生まれた1955年
ローザパークスという黒人の女性がバスで白人に席を譲らなかっただけで逮捕されるという事件が起きます、、。
ストリートの歴史 エピソード1-2
【奴隷制度撤廃に効果的だったシットダウン戦略】
ローザパークスの逮捕事件(通称:モンゴメリー・バス・ボイコット事件)を受け、これまで抑圧され続けてきた黒人たちのフラストレーションが一気に爆発。黒人の街アトランタで生まれたキング牧師(Martin Luther King Jr. / 1929-1968) の指揮のもと、平等な扱い、雇用や教育・住居など基本的な人権を求める公民権運動が始まります。
相手を殴り返すだけでは前に進まない。と、キング牧師は暴力なしでこの社会体制に対抗しました。
中でも一番効果的だったのは「シットイン」という座り込み作戦。
黒人たちは一部のレストランで、注文しても料理が出てこないどころか水すらも出してもらえないという差別を受けていた為、それに対抗する手段として「飯が出てくるまでずっとここに座って待っている。」と、店側との根比べに席を占領してひたすら待ち続けました。
4人の学生が先のことなど何も考えずに起こしたこの行動は、たちまちアメリカ全土に広まり、黒人たちは白人や警察が先に手を出してくるのを待っていました。すると、座っているだけなのに逮捕されたり、リンチされたり、、黒人たちを蹴散らすような事件が次々と起こり始めました。
ストリートの歴史 エピソード1-3
【リーダー2人の暗殺事件】
座り込み運動が引き起こした黒人への理不尽やリンチや逮捕などの事件が新聞やテレビを通じて全国民に知れ渡った結果、
1963年8月28日にアメリカ史上最大のデモ『ワシントン大行進』が行われました。
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20万人が参加したこの大規模なデモの場所でキング牧師は黒人差別の撤廃を求めたあの有名なスピーチをします。
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”I have a dream
私には夢がある。
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that my four little children
いつの日か私の4人の子供たちが
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will one day live in a nation where they will not be judged by the color of thier skin but by the content of their character
肌の色ではなく人格そのものによって評価される国に住める日が来るという夢である。”
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当時のアメリカ大統領だったケネディ大統領は黒人差別の撤廃を掲げてキング牧師に全面的に協力し、実際に多くの黒人を政府の幹部に任命したり、差別を合法としたジム・クロウ方の撤廃を国民に宣言しました。
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が、キング牧師のスピーチのわずか3カ月後、ケネディ大統領は暗殺されてしまいます。(1963年)
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またその数年後にはキング牧師も暗殺されてしまい、黒人差別撤廃運動は終幕を迎えたかと思われました、、、。(1968年)
ストリートの歴史 エピソード1-4
【この年生まれた最初のラップ】
ケネディ大統領の暗殺を受け、黒人差別撤廃運動も終幕かと思われた1965年、
ケネディに副大統領として仕えていたジョンソン(Lyndon Baines Johnson / 1908-1973)が大統領に就任。.
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黒人の人権と投票権を保証した2つの法律を通して1965年から黒人はようやく法的に平等になりました。.
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そして同年、”1番最初のラップ”ではないかと言われている名言が誕生します。.
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Float like a butterfly , sting like a bee.
『蝶のように舞い、蜂のように刺す』
- モハメド・アリ.
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黒人がひどい扱いをされていた中、その強さから黒人のヒーロー的存在であったプロボクサーのモハメドアリ(Muhammad Ali / 1942-2016)が、自分のファイトスタイルを現したこのフレーズは、アイスキューブ(Ice Cube / 1969- )やミゴス(Migos / 2008- )など幅広い世代のラッパーのリリックに引用され、日本のラップシーンでも有名な台詞となりました。
ストリートの歴史 エピソード1-5.
【白人アーティストが憧れた黒人ギタリスト】
黒人たちが失われた人権を取り戻し始めた1960年代頃から、ジェームスブラウン(James Joseph Brown Jr / 1933-2006)の登場によってファンクという音楽が本格的に始まります。.
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※ファンク=ジャズ・R&B・ソウルの要素を組み合わせてノリやすくダンス向けに開発された音楽.
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FUNKは直訳すると『泥臭さ」や『悪臭』と言う意味があり、それは当時黒人奴隷たちに吐かれた暴言のようなものでした。.
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黒人達はあえて自分達にかけられた暴言を音楽のジャンルの1つとしてネーミングする事で、現在のヒップホップのように”FUNK”という音楽の元に団結しました。.
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同じ頃、ビートルズ(The Beatles / 1962-1970)がイギリスのバンドにも関わらずアメリカのチャートで1位を記録。.
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そんなビートルズのポールマッカートニー(Paul McCartney / 1942-)がずっと追いかけていたのがシアトルの黒人ギタリストであったジミーヘンドリックス(Jimi Hendrix / 1942-1970)でした。.
1960年後半に差し掛かり、この2組はやがて全盛期を迎えます。
ストリートの歴史 エピソード1-6
【独創的ブラックミュージック創始者の登場】
ギタリストとして多くのミュージシャンに影響を与えたジミーヘンドリックスの一番の特徴だったのが、サイケデリックな聞こえ方をするギターのサウンドでした。
このサイケデリックな要素をファンクに混ぜた”Pファンク”という新しい音楽のジャンルを、ジョージクリントン(George Clinton / 1941-)が開発します。.
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ジョージクリントンはPファンクの創始者である他、数多くの独創的ブラックミュージックの基礎を築き、目で楽しむのが追い付けないほどの奇抜なステージとファッションも後のFUNK/HIP HOPに多大な影響を与えました。.
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そしてこのジョージクリントンが開発したPファンクを、のちにDr.Dre (Andre Romel Young / 1965-)がサンプリングしまくった結果、現代のラッパーであるトラビス(Travis Scott / 1992-)やケンドリックラマー(Kendrick Lamar Duckworth / 1987-)の代まで伝わり、60年近くたった今でもジョージクリントンはヒップホップのフェスに呼ばれるなど活躍し続けています。
ストリートの歴史 エピソード1-7.
【ヒップホップ都市伝説となったShakur一家】
黒人達はファンクやPファンクを発展させた一方で、法的に平等になったにも関わらず実際はひどい扱いや差別を受け続けていました。.
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彼らを台頭していたキング牧師やマルコムX(Malcolm X / 1925-1965)といった人権運動のリーダーたちが次々と暗殺されたことを受け、本当の意味での平等と自由を求めて黒人達は”ブラックパンサー党”という自衛組織をアメリカ西部のカリフォルニアで発足します。.
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ブラックパンサー党は警察の暴力から自分達のコミュニティを守るために武装していて、やがてカリフォルニアの真逆にあるNYにまで支部ができるようになります。.
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そしてそのNYの支部の幹部だったのが、2Pac(Tupac Amaru Shakur / 1971-1996)の実のお母さんアフェニ・シャクール(Afeni Shakur / 1947-2016)でした。.
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2Pacのお父さんもまたブラックパンサー党のNY支部に所属、活動家2人の血を引いてやがて2Pacが生まれます。.
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2Pacの名付け親であるおばさんのアサータ・シャクール(Assata Shakur / 1947-)も同じブラックパンサー党のNY支部に所属しており、そのリーダーシップと影響力からFBIに目をつけられて最終的に逮捕、終身刑を課せられますが、うまく脱獄してキューバに亡命します。
映画のような話ですね。w
これが2Pacがキューバで生きていると言う都市伝説の根源です。
これでエピソード1は終了です!
次回からはいよいよHIP HOP成長期のエピソード2をお届けします!お楽しみに!